2月 9, 2014

手段を選ぶ話

Posted in scrible @ 12:51 by R_tungsten

kaleidoscope

 突然だが、写真と言うのは容量を食う。
 いやいや当たり前でしょ?と言われるとその通りなのだが、デジタルでうんメガバイトである。文字の方が余程容量が少ない。フィルムの場合アナログなので「まぁこんぐらい」と定量的に表現できないのだが、24x36mmの切れっ端とは言っても、じっと見つめてるとそこからうわぁっと銀の粒子が浮かび上がってきたりして、これはこれで現実の容量を食ってるのでは?と思う。
 と言うわけで伝えたい事があるなら文章を使え、と思うわけである。その方が合理的である。

 写真にメッセージ性を含ませるのは不可能ではない。「こんな綺麗な風景を見たよ!」でも良いし「こんな汚い風景を見たよ!」でも良い。「こんな優秀なレンズだよ!」でも良いし、「こんな美味しいプリントを焼けるよ!」でも良い。「私ちょっと頭がおかしいよ!」でも「生活はしんどいよ!」でも良い。「生きたいよ」でも「死にたいよ」でも良い。
 ……うんメガバイト使って、あるいはA4より大きいサイズの紙を消費して伝えるべきメッセージがたったそれだけ、と言うのが不合理なのは、しかし事実である。1枚の写真が伝えられるメッセージは1行の文章より遥かに少なく、しかし必要な容量は遥かに多い。
 ステートメントやキャプションの文字によって写真のメッセージ性が限定されるのはその良い裏づけである。

be shorter than me.

 何か伝えたい事があるのなら、正常な思考を持った人間なら写真と言う手段を選択しないハズである。言葉で伝えればそれで済む。写真展を見に行っても、無為に恣意的な写真ばかり壁に飾られていると「なんで言葉にしないんだろう?」と思う。そう言ってはあまりかも知れないが、しかしなんでそんな無駄な事をするんだろう、と思うし、たぶんこれは、ごく普通の思考のハズである。写真を撮る人間が、「写真にはメッセージ性が含まれている」と先入観を持ちすぎてはいないだろうか?

雪の夜に #02

 写真を撮る時に何かを伝えたいと思ってる事はない。「こんな綺麗な景色を見たよ!」とも実は思ってない。レリーズを切らせるのは、もっと具体性を欠いた感情である。撮れた写真はどちらかと言えば代謝物であって、なにかぐにゃぐにゃどろどろしたモノの中からどちゃりと落っこちただけのもののように感じる。だがそれで別に良いかとも思うんである。

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