12月 26, 2013

観光者の視点、住民の視点

Posted in scrible tagged @ 14:01 by R_tungsten

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 旅行へ行った時に、さて何を撮ろうか、と思う事がある。仮に京都へ行ったとしたら、仏閣を撮るのだろうか?観光者ならば、おそらくそうである。だがたぶん、どこかで見たような写真になるだろう。では、何気ない普通の路地を撮るのか?住民ならばおそらくそうだろう。だが、わざわざ旅行へ行ってまで撮るべきだろうか。
 田舎育ちの僕は、子供の頃は田んぼばかり撮っていた。理由は良く分からないが、たぶんそれが日常の中で目にする「良い風景」だったからだろう。今の自分が1ロール田んぼばかり撮れるかと言うと、たぶんそれはムリなのであるが……。これは悪い意味で見慣れすぎてしまったからである。大都会に住んでる人間が、僕の生まれ故郷へ旅行へ来たなら、きっと一面の田んぼを美しく感じたりもするのである。美しく感じれば撮る事も出来るハズである。逆に、田んぼばかりの景色の中で育った人間は、背の高いビルが美しく見えたりもするのである。

 斯様にして、僕らは同じ風景であっても、観光者の視点と住民の視点で別の感情を抱く事がある。

in the warm tone

 一般的に、住民に比べて、観光者である方が、世界は美しく見えるものである。だから、写真を撮る為に旅行へ出掛ける人間は比較的多い。
 しかし待って欲しい。観光者とはつまり、「そこに居なれていない人」である。慣れていないから、何を目にしても面白く感じる。これは面白く感じる事で、その場を記憶しようとしているのである。記憶する事で生活が円滑になる。何が何処にあるのか知っていれば、目的を達成し易くなるわけである。例えば、本屋が何処にあるのか、知っていれば雑誌や小説を買いに行ける。当然だが、知らなければ新たに探さなければならない。面白く感じるとか美しく感じるとか言う事は、記憶を強固にする為に必要な事である。極論してしまえば、記憶する為に、わざわざ美しく感じるように、人間は最初から設定されている。
 そして記憶する事で慣れるのである。慣れた結果、観光者は住民になる。目にするものから新鮮さは失われる。つまり、観光者はその場を記憶し続ける限り、やがては住民になる運命にある。記憶すると言う事は、風景を消費する行為であるとも言える。消費し、自身には無価値な物として代謝する。
 試しに、自分の部屋で36枚写真が撮れるか試してみてはどうだろう。貴方の部屋の中には、写真として撮る気になる風景が36も残っているだろうか。

 scale

 生きれば生きただけ、新しい場所へ行けば新しい場所へ行っただけ、記憶すれば記憶しただけ、世界から価値は失われる。では何故我々は生きているのか。価値を見失う為か。
 勿論否である。そんなこたぁない。それは論理のすり替えという物である。そもそも初めて見るモノを美しいと感じることは、私たちが生きる行為を円滑に、合理的に行う為に設定された感情であるのだから、新たな風景を美しいと感じる事そのものは価値あることではない。真に価値ある事とは、美しさを感じ続ける事にある。どれ程毎日見上げようと、空は美しいし、毎日歩いている家の前の道も美しく感じる事が出来る。そこに合理性はない。圧倒的な不条理がある。見慣れたものを見て、美しいとか面白いとか感じることは、まったく意味がない。だからこそそこには不変的な価値がある。

 住民の視点でも、たくさん写真が撮れたら、それは素敵な事だと思うのである。

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