2月 27, 2012

写真を選択する話

Posted in scrible tagged , , @ 12:54 by R_tungsten

Narcissus area

 何か一つを選択すると言うことは、他の可能性を全て捨てる、と言うことである。
 朝起きて一杯のコーヒーを飲む、と言うだけの行為でさえ、裏には、二度寝して水を飲む、と言う可能性を捨てた選択なのである。
 写真を撮るという行為は選択の連続である。

 とあるカメラにとあるフィルムを入れる。
 そのカメラを持ってどこかへ出かける。
 被写体を見つける。
 その場に立つ。
 露出を決める。
 フレーミングする。
 フォーカシングする。
 レリーズを押す。
 現像する。
 印画紙を選ぶ。
 ベタ焼きをする。
 プリントするコマを選ぶ。
 テストプリントを繰り返す。
 一枚のプリントが出来上がる。
 額装を選ぶ。
 公開する場所を考える。
 一枚の写真が誰かの目に留まる。

 これらは全て選択である。一つを選んだ瞬間に他の可能性は失われる。一枚の写真が出来上がるまで何千枚の写真が捨てられる。時々悲鳴が聞こえたりする。
 そう考えると、写真を撮るのがとても怖くなるのではなかろうか。
 しかし実際にはそんなことはない。従って、考え方が間違っている。

三茶路地

 頭の中で一つ実験をしてみよう。一台のロボットの実験である。
 そのロボットには温度、湿度、風向、道の勾配、目的地までの距離を測定し、比較できるセンサーがくっついている。しかし測定と比較にはエネルギーを消費する。さらに時間経過によってもエネルギーを消費する。エネルギーは最初一定量内蔵されているが、その後は外部から供給されない。新しいエネルギーを得るためには「餌場」まで自力で動いていかねばならない。
 ロボットは最もエネルギーを消費せずにたどり着ける餌場を最優先して動くようにプログラムされている。要するに、絶対に間違わず最も正しいモノを選択するロボット、と仮定する。

 では仮にもし、最も近い「餌場」が2つ、全く同じ条件でそのロボットの前に現れたらどうなるだろうか。

 この空想のロボットは、たぶんどちらも選べず、時間経過によってエネルギーを消費して停止する。どちらの餌場にも辿り付けるエネルギーを持っていたにもかかわらずである。
 しかし人間ならば違う。「なんとなく右側」とか「迷った挙句左側」とか死んでしまう前にどちらかを選択する。この「なんとなく」を「付加価値」と呼ぶ。付加価値とは詩的な表現をすれば「愛」である。

 話を戻そう。つまり選択とは他の可能性を切り捨てることと同義ではない。
 愛に基づいて一つの可能性を拾い上げることである。
 だから暗室で写真の悲鳴は聞こえない。幸運なことである。

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